オートワールド 1967 シェルビー GT350 グレー/ホワイトストライプ 50th Anniv. 1:18


1991年12月、ついに「バイパーRT/10」がデビューを果たす。1995年にはコブラのクーペタイプ「デイトナコブラ」を彷彿とさせる「バイパーGTS」も登場。クライスラーの思惑通り、市場では大きな反響を呼んだ。


■PHOTO&TEXT:IZUMI HIROMOTOアメ車マガジン 2018年 8月号掲載

SHELBY COBRA DAYTONA COUPEはアメリカにかつて存在した「シェルビー・アメリカン」製のレーシングカー。
シェルビー・アメリカンはレーシングドライバーだったキャロル・シェルビー氏が現役引退後、当時圧倒的だった欧州レースカーに対抗できるアメリカのレーシングマシンの開発を目的に設立されました。

1965年にデイトナ2000km、セブリング12時間耐久などに出場したゼッケン12号車のマシン

グリーンライト 1967 シェルビー GT500 ホワイト/ブルーストライプ 1:18

2014年には電気自動車のデイトナも登場していたけれど、オリジナルにより近い限定モデルはさらに人気になるんじゃないかな

「デイトナコブラ」は108件の商品が出品されており、直近90日の落札件数は3件、平均落札価格は35,110円でした。
オークファンでは「デイトナコブラ」の販売状況、相場価格、価格変動の推移などの商品情報をご確認いただけます。

ピーターブルック氏のデザインによるシェルビーデイトナは、コブラのシャーシを使いエアロダイナミックなボディにより、

2017年にコレクションとして追加、憧れの「デイトナ・クーペ」を入手!大分県の某所、輸入車販売店を利用したガレージに古今東西の名車を収蔵。しかも、その大半を占めているのがアメ車だ。ナンバー付きの完動状態で保管する個人コレクションに本誌がメディアとして初潜入!

まだ制作中で色も塗られていない工場内のモデル。このクーペの写真を見て、あれ? と思った人はさすが。このマシンはシェルビーの手によってコンプリートされた唯一のディトナコブラで、他のモデルはすべてイタリアのカロッツェリア・グランドスポーツの作品である

「デイトナ コブラ」の中古車 | 中古車なら【カーセンサーnet】

1962年1月、イングランドのACの工場でフォード製V8エンジンが搭載されたACはCSX0001(Carrol Shelby Experimental No.1)と呼ばれ、未塗装のアルミ・ボディのままシェルビーの元に送られた。シェルビーは、このクルマに何か新しい名前を付けようと悩んだが、夢のなかで『コブラ』という名前を思いついたのだそうだ。かくして4月のニューヨーク・オートショーでシェルビー・コブラはデビューした。デビューレースは同年10月にリバーサイド・スピードウェイで開催された3時間レースであった。より大排気量のコルベットに対し、コブラはトップを走っていたがリタイアに終わっている。次は12月のナッソー・スピードウィークであり、このレースではフェラーリ250GTOが上位を独占し、コブラはまたもリタイアに終わっている。

じつは2022年夏にこのクルマはアメリカのオートオークションに出品されており、出品目録にあった写真と展示車を見比べると、車体に入ったゼッケン番号以外はまったく同一の車両であった。おそらくは展示車両はこのオークションで落札されたか、落札後にオーナーから購入した上で日本に輸入したのだろう。


ラジコン First Mini-Z シェルビー コブラ デイトナ クーペ

シェルビー コブラ デイトナはアメリカ車がヨーロッパの強豪メーカーを打ち負かすという歴史的な偉業を成し遂げた車として、自動車史に名を残しています。

1/24 グンゼ改造 シェルビーコブラデイトナクーペ 製作開始

Rinsey Mills は、1960 年代に美術学校に通っていたときに初めて AC を購入しました。 それは行き来しましたが、決して忘れられず、数年後、荒廃した後、彼はそれを再び手に入れました。 その後、テムズ ディットンの AC 工場を訪れたときの偶然の会話から、彼はこの使い古された、くすんだスポーツカーが 1935 年のモンテカルロ ラリーでほぼ優勝したことを知りました。 有名なマークの専門家になります。 この情熱により、彼は後年キャロル・シェルビーと知り合い、公式の伝記作家になりました。 彼の主な著作であるキャロル シェルビー: 認定された伝記 (ヘインズ、2012 年) は、シェルビーの死のわずか数週間前に出版されました。 Rinsey は、Original AC Ace & Cobra (Bay View、1990 年)、Essential AC Cobra (Bay View、1997 年)、Great Cars: AC Cobra (Haynes、2003 年)、AC Sports Cars in Detail など、AC 関連の書籍を執筆しています。 : 6 気筒モデル 1933 ~ 63 年 (Herridge & Sons、2007 年)。

グンゼのデイトナコブラを久しぶりに手に入れました。高校生くらいの頃、新製品で買って作ったキットです。ヤフオクで購入しました。

通常の赤色とは異なり、京商オンライン限定販売のコブラ デイトナは特別色のクロームを纏った仕様。

シェルビー・デイトナ・コブラ・クーペのエンジンサウンドです! アメ車特有のV8 SOHCの排気音もイイですね.

『ザ・コブラ-フェラーリ・ウォーズ』は1963年‐1965年までのフェラーリとシェルビー・コブラによる各レースの戦いぶりと技術的変遷を解説してくれる労作。

デイトナ コブラクーペ(CSX2602) (レジン・メタルキット)

ダッジ「バイパー」は「ACコブラ」を現代によみがえらせたクルマといっても過言ではない。なぜなら、そのコンセプトこそ「現代版コブラを生産しよう」というものだったからだ。開発メンバーにはACコブラの生みの親であるキャロル・シェルビーが名を連ねた。

1965 シェルビー コブラ デイトナ クーペ ブルー #98 1:18

翌1965年はワークスカーとしてガーズマン・ブルーのシェルビーアメリカンカラーに塗られ、2月のデイトナで総合6位入賞。3月のセブリングでも13位完走を果たした。ル・マンは欠席し、1965年はニュルブルクリンクに出場している(この時は12位)。

北米では シェルビーコブラなどを復刻盤として 新車で製造販売されています。 ..

スズキ「ソリオバンディッド」がアルファード顔になった!「ソリオ」の一部改良はパワートレインや安全装備まで大幅変更…価格は193万円〜

1/24 グンゼ改造 シェルビーコブラデイトナクーペ 完成!

開発当初からパンテーラはモータースポーツへの参戦が考慮されていた。最初に開発されたレーシングモデルは、1972年に登場したプライベートカスタマーチーム用に製造されたGr.3で、およそ30台が製造された。このモデルは当時のFIAグループ3(量産グランドツーリングカー:1000台以上生産した2座席以上のクローズドボディ車)規定に従って、市販車両に6点ロールケージやレーシングバケットシート、消化器が追加され、強化カムシャフトと10Lに容量を拡大したオイルパン、ホーリーレーシング4バレルキャブレターなどのレース用パーツが追加された。

クルマお宝話(18) デイトナ・コブラ · 1161_2 · 1162_2 · 1163_3 · 1164_2 · 1165_2

キャロル・シェルビーはイギリスのジョン・ワイヤーから才能を見初められ、アストンマーティンのワークス・ドライバーに抜擢され1959年のル・マン24時間にて優勝した。アメリカ生まれのアメリカ人による最初のル・マン制覇だ。しかし翌年、このテキサス生まれのタフガイには心臓の病が見つかり、レーサーという職業を断念せざるを得なかった。
そこで1961年に、シェルビーはカリフォルニアにドライビング・スクールを開設する。ピート・ブロックを講師として雇っているが、彼こそはシェルビーの最初の社員だった。シェルビーは同時にアメリカ製スポーツカーのプランも練っており、フォードから新開発のスモール・ブロックのV8エンジンの提供を受ける。車体は、シェルビーがソルト・レイクにおいてヒーリーのスピード記録計画の一員だったこともあり、ビッグ・ヒーリーをベースにすることを考えた。しかし、そのシャシーと足まわりはすでに時代遅れのものであったため英国のACにコンタクトを取った。ジョン・トジェイロが設計したレーシングカーをベースとするACエースは、ちょうどブリストルに替わるエンジンを模索中だったため、ACのオーナーであるハーロックはシェルビーと握手を交わしたのだった。

設計図は一緒!シェルビー コブラ デイトナ クーペ 50台限定発売!

後日、資料を漁ったことで謎は解けた。この車両のシャシー番号はおそらくはCSX2469だろう。その出自は1990年代前半にオリジナルのコブラ・ロードスターをベースにシェルビー・デイトナ・クーペへと改造された車両のようだ。ただし、製造はキャロル・シェルビーの監修の元、彼のパートナーであり、コブラの専門家でもあるマイク・マクラスキーが手掛けている。どうやらシェルビーが自分用に作ったマシンらしい。

ウォン警部のブログ記事「シェルビーコブラ・デイトナクーペCSX9000」です。

だが、今回アメフェスに展示された車両はいずれのシャシー番号でもない。展示車両の細部をよく検分すると、後年スーパーパフォーマンス社が製造したレプリカではないようだが、1960年代にレースで活躍した車両とは細部の意匠が異なる。WWRJのスタッフに尋ねると「本物」との答えが返ってきた。これは一体どう言うことだろうか?

伝説的マシンが527psで復刻 シェルビー・デイトナ・コブラへ試乗 エンジンはGMのLS3 | 車の話

そこでシェルビー・アメリカンはGMでコルベット・スティングレイ(当時唯一世界に対抗できたかもしれないアメリカ車と言われていたらしい)をデザインしたピート・ブロック氏にクーペボディのデザインを依頼。
そうして生まれたのがSHELBY COBRA DAYTONA COUPEでした。
※SHELBY DAYTONAという名称は

ブログ:シェルビー コブラ デイトナ クーペ用スターターモーター

2025年の干支は巳。巳年の始まりを記念して(?)、「ヘビに縁のあるクルマ」を何台か取り上げてみたい。今回はダッジ「バイパー」というクルマだ。「バイパー」(viper)は「毒ヘビ」を意味する言葉だが、そんなに危険な乗り物だったのだろうか?

京商 ミニッツ オートスケール シェルビー コブラ デイトナ クーぺ レッド. 17,000円.

With MOONであります。 ヨーロッパ製ACのシャシーにフォードV8エンジンを載せて作られたコブラをベースに、たった6台(+プロトタイプ1台)が製造された純レーシングカーのデイトナ・コブラのボディ・デザインはあの日野サムライをデザインしたピート・ブロックの手になる物で、さすが天才(変態)であります。60年代、打倒フェラーリに燃えていた時代のフォード&シェルビー・アメリカンが残した宝石の一つですね。高度にチューニングされたスモールブロック・フォード289は390hpを絞り出し、クォーターマイルを12秒台で走り切り、198マイルのトップスピードを誇りました。ルマンやデイトナ、セブリング等、長距離レース用としてデザインされたそのボディはフロントエンジンでロングノーズ・ショートデッキ、コーダトロンカといった60年代テイスト満載の素敵なデザインでしたが、時代はミッドシップに流れつつあり、第一線での現役時代は意外と短く、あまりにも速くあまりにも有名だったあの名車「フォードGT40」にバトンタッチされてしまいました。さんざん走って中古レーシングカーとなった旧式のデイトナ・コブラたちは売りに出されそのうちの1台(シャシーナンバー:CSX2300)が日本にやって来ました。日本レース界の黒幕とも言われ、後にCAN AMやF-1でShadow Teamを率いるドン・ニコルズの手により日本人レーサー故酒井正の元にデイトナ・コブラは売られました。ついこの前の1966年4月26日に上陸したそうです。酒井氏は23歳の時にこの車を入手しましたがパーツ代、輸送費含め60年代当時のお金で一千万程かかったそうです・・・・当時では天文学的な数字です。日本グランプリ等を走り、パワーに物を言わせ直線番長的な活躍をしましたが、酒井氏はデイトナ・コブラを力でねじ伏せる豪快なドライビングでファンの目を楽しませました。その後、酒井氏によると知人の鉄砲商にこのクルマを「パーツごとたしか¥300万くらい」で譲り、明珍和夫さんというドライバーでレースを走りましたが、68年の日本グランプリFISCOのS字切り返しでひっくり返ってしまい、これを機にこのデイトナ・コブラはレースを引退したそうです。さらに二人のオーナーの元を経てストリート・バージョンに改造されたこのクルマは302エンジンにオートマチック・トランスミッションという組み合わせで京都のスーパーカーディーラー「トミタオート」さんへ売られて行きました。当時の雑誌広告を見て小学5年生のWildmanは「デイトナ・コブラがたったの¥780万円だって、や、安い、安すぎるぞ!!」と興奮致しましたがどうにもなりませんでした・・・あの時、自宅を売って親に買わせておけば今頃億万長者になってました、残念。(だってその後アメリカのオークションで450万ドルとかいう値が付いてるんだもん、私の目に狂いはなかった!?)結局このCSX2300は日本を離れて御大キャロル・シェルビーの元へ引き取られ、ビカビカにレストアされ、ラスべガスのミュージアムで余生を送っております。でもね、そんなビカビカな姿よりも「品3」のシングルナンバー(テンプラかな?)を付けたよれよれボディーで調子悪そうに日本の道路を走ってるデイトナ・コブラの方がWildmanにとっては魅力的な存在なのであります。やっぱ買っておけば(買わせておけば)よかった!!!