Nice!:10 · (育児日記)はっちゃん? 2011/06/01 19:15
7月6日に発売予定の「の」のDVDなんだけど、
TowerRecordsの予約ページに、
「の悩み(ほぼ完全版)」って書いてある。
”ほぼ”って、どうなんだろうかと、
まあ、この時期のターさと、
それでも根強い芸能界への圧力と、
天秤にかけて、
うまいこと、”ほぼ”に
落ち着かせた内容なんでしょうか?
にしても楽しみ、です。
コブラの悩み 【完全生産限定盤】(180グラム重量盤レコード)
等々、他にも様々な種類がある。
当然だが縛れば縛るほどゲームの難易度は上がっていくが、中には進んで大量の縛りを組み合わせるものまである。
この場合はクリアできるギリギリまで縛りを吟味しなければならない。
動画サイトの「縛りプレイ」の他、かつてユーズド・ゲームズ誌で連載されていた企画「疾走!魔法大作戦 (RPGをほぼ全て魔法系コマンドだけで攻略)」が代表的か。
これらは行うも行わないもプレイヤーの自由であるが、(いわゆる「ランクゲー」のような)ただクリアを目指すにも意識して縛らないとバランスが悪い、縛りプレイが実質強制されるといった物は批判の的になる。
逆にシステム上縛りプレイが実質不可能な作品もある。
である。お金の用意、もしくは使い方、仕事の指示が僕の仕事である。バリに一切の不安感は今はない。日記のバックナンバーを読んでくれたらわかると思うが、ビジネスの当初は不安気だった。わからないことが多かった。今は呼吸や間合いがわかるようになっている。
2003年6月24日デンパサール 「粉にするマシーンとシュリンクの機械を見て、それからサトリアでナシチャンプルを食べて帰ろう」「そうしましょう」ということで、暑い中デンパサールの住宅街を歩くことになった。路地が入り組んでいる。ややゴミの匂いのする住宅街を歩いていると、なんだか懐かしい感じになる。北京の大通りを一本を奥に入った路地や香港の家船の基地となっている島の町の路地、台湾や韓国の住宅街でも見たことがあるような気がする。もっと遠い昔、紀州の尾鷲の僕が生まれた路地に似ているような気がする。昔住んでいた路地にある生家の裏庭になつめや無花果がなっていた。井戸があり、鶏もいた。トカゲがチュロチョロといた。自殺して死んだ従兄が「カナチョロ釣る」といってトカゲを釣っていたものだ。僕は路地で育った。周りには二、三つ上とか下の子が一筋の路地にかなりいた。学校に入るまでは路地の仲間たちとよく遊んだものだった。小学校に入ってからは路地の仲間とは時々顔を合わすくらいになり、学年も違うことから学校の友達が遊び仲間の主となった。路地よりもおもしろい遊びがいっぱいあった。行動の範囲が広がることはなによりも楽しかったに違いない。真夏の暑い夕方、路地に家を借りていた子供を二人もった夫婦が、路地の者と一線を画すように暮らしていた。学校の教師ということだった。なんだか雰囲気が違っていたが、なにしろ暑い日だったから、教師一家の夕食風景が見えたのだった。袖無しの麻の下着とステテコのスタイルの夫と化粧をし、特に唇の紅が鮮やかな妻と二人が座っていた。夫のほうは片ひざを立て団扇で顔をあおいでいる。確か、女性の方はパーマをかけていた。この夕暮れなのに子供たちがいないのを訝った。夫の方は肌がテカテカとした男性だった。いつとも知れず、この家族はこの路地から離れていった。路地の前に電電公社ができることになり、しばらく空き地になっていて、蝙蝠が夕暮れに飛ぶ中に佇んでいたことがあったが、その頃はもう小学六年生だった。高度経済成長は始まっていたのだろう。高校の一年生の秋に親が念願の家を建て、別の地域に引っ越したのだった。そこは核家族の住まいであった。 デンパサールの路地を歩いていて一気に昔が甦ってきた。生活の匂い、路地でたむろする大人、庭に生えるマンゴやメンクドは尾鷲の生家の庭のなつめや無花果と同じに見える。なにがしか食べられるもの。 季節が過ぎるたびに僕らはだんだんとひとりひとりの思いに更けるようになっていった。 イダの親戚の夫婦はブロイラー種のコーヒーをシガラジャから買い付け、自宅で焙煎して粉にし、パックにして、ワルンやレストランに売っている。仕入れ値に二倍を手間賃としてかけた商いである。 「去年は一か月で1トン商ったが、今年はテロとSARSで200kgがやっとだ。競争も厳しいし、好い日が来るのかねえ」とにこにこして言っている。普通のサラリーマンなら100万ルピアとか200万ルピアの固定収入であるが、シガラジャから買い付けたコーヒーを加工することで、1トン、つまり2400万ルピアも稼げたら上等である。 「そのコーヒーミルで対葉豆も挽けるかな」などと話をし、ハッピーバリの「バリコーヒー」もここから買おうかな、と思ったり、ここの路地の夕暮れがどんな風だろうと思ったり、面影の中を漂うように、僕はまるで縁側のようなバレの床に座っている。 デジャブーが起こりそうであった。彼はコーヒーの仕事が暇なので家の屋根瓦を一部なおしているところだった。この家にもアグン山の方向に家の寺院があり、仕事や台所はそれと反対の方向にあった。昔の東京の家のように、家の一部をアパートとして貸していたが、今は一人しかいないそうだ。こういったところにバリ島はこの二十年で変貌し、経済的には発展したことを覗わせる。 イダの親戚の家を辞去して、歩きながら、 「イダ、二十五年前のことを憶えているかい?」と聞くと、 「シガラジャからバスで来て、そこから馬車で来ました。車はほとんどなく、貧しかったけど、のどかでした」と笑いながら答えた。イダはバリ島が今や観光産業に誰もが頼っていることを知っているが、バリ人が変わっていく様を見て、忸怩たる思いを持っている。それは日ごろの彼の言動からわかる。バリ人はこうであらねばならない、というものでもない。豊かになることは嬉しい。しかし、と思っているのだ。 サトリアでナシチャンプルを食べてタクシーで帰ったのだった。 その夕方、「高速道路」について話をした。「シガラジャとウブド、デンパサール、クタをつなぐ高速道路ができたら、北部には新しい産業が生まれるだろうな」と僕は言った。するとナルミーニが、高架の道路は寺院よりも高くなるからいけない」と言った。「電信柱も短くしているのよ」と言う。すでに高速道路を知っている時代の段階にいる僕は「知っている」という折り返しの視点でバリの高速道路を考える。彼らはまだ未経験である。これからきっと選ばなければならない。第三の方法もあるだろう。迂回、例えば、ひたすら海側を走る道路を整備するという方法もあるだろう。町が変貌しつつあるデンパサールを今日は感じたのだった。
2003年6月23日プラガバリ人たちが家族で憩うブドゥグルの手前にプラガという村がある。ほぼバリ島の中央に位置する。今日はこのプラガの農園に行くことになった。途中、今日のホストのローズ社長が車を止めて、何やら買い物を始めた。川魚である。グラミという一週間ほど前にから揚げで食べた魚である。美味しい魚である。彼女は5kgの生きた魚を買い、土曜日に食べるのだという。88万ルピアだったから、相当な金額である。 ひたすらくねくねとした道を走る。前方にブラタン山が見え、右手、時に左手にアグン山が見える。やや高地になっていて、乾燥している。ここにパシフィック ローズの花園がある。国内用と海外への輸出用にと挑戦した農園である。趣味も昂じているのか、戦略なのか、バリ島では見ない花ばかりを植えてある。ペーパーデイジーというドライフラワーのように見えるけど生きた花や、ひまわりも種類多く咲いている。話の通りカラーも育成中であった。隣の農園はマンダリンみかんを栽培している。このあたりは農園だらけだ。 九月からカラーを週五百本。十月からは週千本。そして徐々に出荷数を上げていく。この計画でよいかと念をおすと、それでよい、と自信たっぷりに言う。冷蔵庫もある。虫対策もしている。言うことなしだが、カラーはまだ生えていない。昨年失敗している。今年は大丈夫だという。本当に大丈夫なのか。歴戦のつわもののような顔をしたローズおばさんであるし、兄妹の契りまで結んだのだからまあ、信用することにしよう。 このプラガも中心地から近ければと思う。おそらく高速道路ならば二十分そこらである。二時間かかったがひどく遠く感じる。バリの道は緊張に満ちていて、のんびりと居眠りなどしておれない。鶏は飛び出す、犬がふらふら歩いている。単車がヨロヨロと走る。オダランの行列がある。車はどんどん前方から来る。クラクションが鳴る。特に近年車が嫌いになっているので、僕は神経をすり減らす。ローズおばさんは特等席は助手席だと思っているらしく、二時間ずっと落ち着かなかった。昔は車は平気だったのに、年を重ねるにつれて、知り合いや部下が交通事故で死んでいる。おそらくその経験のトラウマのようなものなのだろう。交通事故死ほど残念な死に方はないと思う。発展途上の国は車が忙しい。せわしない。アメリカであれば4車線が当たり前である。日本も昔は今よりせわしなかった。僕は日本はまだまだ道をよくするのは課題だと思う。その点では道路族に賛成だが、道路公団の利権や、いつまでたっても無料にならない高速道路行政にはあきれている。 爆弾テロ以後、車を手放す人が多い、ともっぱらの話であるが、なかなかどうして車は多い。 農園を見学したあと、ぎょろりとした目のローズおばさんは、ジンバランでレストランでもやらないか、と巨大なガルーダ像のあるジンバランの文化公園に連れていった。コンサートなどのイベントの中心として、ショッピングセンターなどが建ち並ぶ、巨大ゴーストタウンである。つまり、お金持ちの人がこのプロジェクトに乗って資産としてこの一画を買ったが用途がない。どこも空き店舗で誰も住んでいない。ローズおばさんのルカも、一目、僕にチェックを入れておいてほしかったのだろう。このゴーストタウンがそれらしくなるまでまだ二年、三年、いやもっとかかるだろう。 車中、バリ島には観光業以外にまだ産業が必要だ。そのひとつに植物のエキス抽出がいいのではないか。日本などで、メディカルバレーが各地にできつつあるから、インドネシアにしかない植物のエキスをもっとさらに詳しく分析して、確かなデータにして生産、販売する工場などどうか、と僕は提案した。すると、「ああ、やってる。スラバヤに工場をもっているわ。弟にまかせてあるけど。ノニジュースを一番先にやったのはアタシよ。韓国に輸出している。チュバという癌に効くというのもやってる」と言う。驚いた。な、なんと幾つもの事業をしているものか。また共通の話題ができて、今度スラバヤに行こう、ということになった。人生は不思議なものだ。こういうふうにしてエネルギーある人と偶然知り合う。 前回バリ島で会ったF・Fさんも傑作酒豪で、行動も早かったが、僕は男よりも女のほうが豪傑が多いのをこのごろよく目にする。 男はどこかしらうじうじと、ねちねちとしている。これは相性なのだろうか。
2003年6月26日日が悪い明日予定通り日本に帰る。今日はろくなことがなかった。 朝、剃刀を取り替えようと、新しい刃を挿し込みをしていたら、プラスチックか、剃刀の破片かわからないが、左目に飛び込んだ。万分一の確率である。一瞬目が痛んだ。目を洗ったが、その後異和感がある。瞬きをするとやや痛い。放っておいて明後日日本の眼医者にでもいけばよいか、とも思って、散髪しに行った。床屋が近くにないので、美容院に行く。前に一度行ったことがある。この辺だったかな、と思ってドアを開けると以前と様子が違う。ダラッーと女性二人が座って、ニタニタと笑う。ここのマネージャーらしき人が席を勧めてくれたのだが、その席はちょうど日が射していて暑そうだった。「ここは暑いよ」と言うと、別の席を指して、「ここでいいでしょう」という。先の二人の女性たちが座っている隣であり、相変わらずニタニタ僕の顔を見て笑っている。本当のアホとはこんなものだろうと思う。美容院の店員なのだから、化粧くらいはするのだろう。厚化粧で、オシャレはしている。でもアホなのである。それがわかる。この店の名は「ニューヨーク」という。ちょっと髪を切ってもらいながらこの娘たちにニタニタしていられたらかなわんな、と思い、やめることにした。何が起こったかわからないということもわからいようで、立ち上がりもせず、「バイバイ」となった。店を出て、以前の美容院を探したら、3メートル先にあった。なんだか安心した。手早く髪を切る美容師さんもいた。ツーリストを相手にした美容室である。 まず、髪を洗ってもらう。ここが日本と違うところだ。すかさず、クリームバスのように、洗いながらマッサージをする。これが気持ちよい。冷たい水で体の暑気をとれる。次がヘアーカットである。助手が真剣に見ている。この美容師は手早い。スパスパと切り、サッサと整え、またスパスパと切る。何度も何度も同じところを切っていない。僕には気持ちがよい。髪形などはどうでもよい。スパスパとやってくれるほうが僕はよい。あのネチネチと1本の不揃いも許さない理髪師がいるが、僕はいつもちょっとイライラする。再度、髪を洗い、すかさず、クリームバス風マッサージで4万ルピア。600円くらいだ。 さあ、今日は買い物でもするか、と思った。しかし、目の調子が悪い。時間があるものだから、クリニックに行こうと思った。これが間違いだった。偶然、クタにあって、二十四時間体制、緊急の対応も万全と書いた、Mなんとかというクリニックがあったので入ったら、日本人の看護婦さんか、案内する人もいるという。入ると、受け付けで、アンケート用紙があって、まず、SARS関係のアンケートである。「いや、目にちょっとゴミが入っただけなんで」と言っても、この質問票に答えなければならない。初診料が60ドルとある。「えっ、60ドル?。レギャンのクリックなら四分の一じゃないか」と言ったら「ここはインターナショナルですから」と言ったので、「おいおい」と思って、レギャンのクリニックへ行ったのだった。 ここは看護婦よし、女医さんよしで、初診料が十七万五千ルピアである。僕をベッドに寝かせ、懐中電灯を持って、僕の目の中を肉眼で調べまくる。たぶん目に入ったのは透明の小さな小さなプラスチックの破片だと思う、と僕は訴えた。看護婦さんと目をひんむいて探すのだが、どうやら異物はないらしい。痛むのは傷のせいかもしれない。ジーパンをはいたそのバリ女医は自信を持って「無い」という。目薬と薬をくれて、勘定となると、やっぱり60ドルくらいだった。以前血圧を測りに行ったときは無料だったので、安いのではないかと思いこんでいた。病院は高いのだ。二重価格になっているらしい。 目は前よりも痛くなって、トホホ、とした気分だった。それでも買い物をするため、レギャン通りを歩き、お目当ての「ミュール」というサンダルに似たものを買ってきてくれ、という妻のリクエストなので、その「ミュール」なるものを探したが、誰もそんな言葉を知らない。妻の足のサイズは23cmであることは知っていたが、店員は23cmがわからない。比較表などを見て、バリの4が23cmだと言う。これほど日本人が来ているのに、足のサイズひとつ、まともに対応できないのはこの十年変わらない。4とはなになのかわからない。しかし、23cmは4だというので、二つ買った。途中、よいメキシコの音楽が聞こえたので、それを買い、よい旅行かばんがあったので衝動買いをした。事務所に帰って、みんなにヘアーカットしたことを冷やかされ、ナルミーニ(可愛いモデルのような女性で以前はワヤンと言っていたが、ワヤンが多すぎるのでナルミニと呼ぶことになったのだった)に、「ちょっとこのサンダル、ヨーコに買ったけど、センスはどうか」などと浮かれた調子で言っていたら、サイズがヨーコには大きすぎるのではないかという。みんな出てきて、大きい大きいと言う。確かに大きい。しかし不思議だ。同じサイズ4ある。ひとつは23cmのようであるが、もうひとつは大きいのである。 まあ、毎度のバリっていう感じであるが、この種のサービス精神の欠如にはいつも情なくなるのである。「その日よければ」である。こっちが学習しなければならない。 よし、4と言ってもサイズを比較してみることが必要だ、と学習をして、もう、今日はなにもしないでおこうと「ひきこもり」をした。何か悪い時は一度にやってくる。 今日は日が悪い、というやつだ。 花と勉強をした今回のバリだった。観光客もやや戻ってきそうな気配もある。ローズおばさんと会ったのも収穫だったし、これまで勘違いしていたこともあって若干の修正もできた。天気は毎日晴天だった。魚が意外とあることも知った。人々は意識してかしないでか、親から離れて暮らすこともかまわないようになってきている。デンパサールのような都会ができるということはそういうことなのだ。都会というのは近代の都市なのだ。昔からのバリ人も、外国からやってきたものも飲み込んで、歴史をひっぱっていく。 今回はこんなところかと、思ってこれで今回は最終回。 遠くからトペン(仮面)劇の声とガムランが流れてくる。どこかの村のオダランに違いない。
2003年10月1日台北の夜 台北は相変わらず賑やかで騒々しくエネルギッシュな都市に見えた。中国語が飛び交うせいかも知れない。士林夜市で目当ての甘辛く煮た小さな巻き貝とガーリックとチリで炒めた渡り蟹を買って、あとはこれを食べる屋台をうろうろと探して歩いた。渋谷に売っていそうな安物のアクセサリーや衣類の店が並ぶ通りを抜け、新しく引っ越したという飲食店が並ぶエリアに足を運んだ。 小粒の蛎や白菜を入れたお好み焼きのようなもの、鉄板の上にアルミを敷き、濃厚そうなソースで炒めた野菜や鶏肉や牛肉。どれも美味そうに見えたがそれは我慢した。妻は食べたいものがあるらしかったが、とりあえずは巻き貝と蟹を食べるためにちょっと元気がたりない主人の客も少ない一角の店に入った。 僕はビールを頼み、巻き貝と蟹を注文した。妻はいろいろと注文したので、それを肴に気持ちよく、満足の気分で飲んでいた。すると四十代らしき男性と三十代らしきカップルが来て注文を始めた。僕らが食べているのをこっそり見ながら注文している。よそ者だとわかった。食べ終わる頃その男性が話しかけてきた。 「日本から来たの? 先月札幌に行ったんだ。ひどい台風に遇ったよ」 台湾の人だと思ったが英語が流暢すぎる。奥さんだか愛人だかわからないが彼の隣にいる女性は美人である。きっと台湾生まれの外国育ちなのかもしれない。二人とも英語が上手である。「カナダに住んでるんだ。投資の仕事をしていて、世界あっちこっち行っている。息子はイングランドで勉強している」調子よく話をしていて、この男性は香港の人で、今カナダに住んでいることがわかった。その女性は奥さんであることもわかった。買い物好きだということも。それで結局は連絡先の交換をして、See you again.
漫画コブラは完全版とMFという2種類があるのですが、どういう違いがある ..
64版から無茶な追加要素はなく、BGMや効果音・操作性などといった当時の雰囲気はほぼそのまま再現されている。
新要素の追加や携帯機という事もあり、オリジナルよりも快適にプレイできるようになった。
裏ゼルダ収録によりボリュームも単純に64版の2倍に増加しており、画質も上がっているため64版をプレイしてストーリーの全容を知っている人にも楽しめるだろう。
ゲームのリメイクとなると、それによる新たな不満点などが生じるのはよくあることで、「前の方が良かった」という声が挙がりがちである。
しかしこのゲームでは珍しくそれがほとんど見られず、あらゆる面で非の打ち所のないリメイク作と言える。